2016年4月17日日曜日

「大きな物語」の必要性

「なろう」で超長編が好きになったということを、
ここ
に書いた。じゃあ、なんでそういった物語が必要だと私は思うのか、という戯言を書いてみます。

「大きな物語」という言葉は、1979年にリオタールが『ポストモダンの条件』という著書の中で書いた言葉らしい。それ以前に確固として存在していた文化的な価値の体系が機能を失っていった……というのを「大きな物語の喪失」と表現したらしい。(詳しいことは調べてください)

 十年か二十年くらい前(もしかしたら今も?)、宮台真司が頻りにそんなことを言っていたのを覚えている。大きな物語を喪失した我々に必要な生き方とは? と。物語がなくても「日常」があるのだから、その日常の生き方を考えなくてはいけない――多分、彼はそう思っていた(いる?)のだろう。

 しかし、私としては、「物語」は生きる上で絶対的に必要なのだと思う。幸せになるために必要なのだと思うから。

 宮台の主張はよく知らないけれど、物語に自分の生き方や幸せの根拠を求めないのだとすれば、自分自身をその唯一の根拠{1}としなくてはいけなくなってしまう。身近な他者であるとか、友人を根拠にすることはできない。なぜなら、身近な人間は「私にとって」身近なのだから。その責任を自分で取らなくてはいけないのだ。幸せになるための全ての責任を自分で負わなくてはいけない。この生き方を幸せと思える人がいるのだろうか? いるかもしれないけど、私には無理。

 だから、幸せになるためには絶対的な価値観が必要だと思う。例えば宗教。日本では宗教を真剣に信じている人はそれほど多くないかもしれないけれど、それを信じることではじめて幸せになる道が開ける。「自分が幸せであるという状態」を定義できるようになる。
 ただ、どうやら今の私たちにとって、キリスト教など古来の宗教は疑いなく信じられるものではないらしい。科学的な発見などと齟齬が生じてしまっている。だからその代わりとなるような物語を提示しなくてはいけない。そうしなくては幸せは訪れないし、そもそも定義すらできない。その物語は、自分が信じることができ、少なくとも自分や世界と矛盾せず、自分や世界の意味を定義できるようなもの――これが必要条件。それは「大きな物語」と呼んで良いものと思う。

 では、自分はどんな物語に属しているのだろう? もし、宗教など既存の「大きな物語」を信じることができないのなら、このように問うのは真っ当だと思う。その際、「なろう」にあるような超長編(の一部)が役に立つ。

 長さというのはそれだけで力がある。たとえ作者が意図していなかったとしても、自然と、その物語世界の意味や、主人公たちの存在意義を問うようなものになっていく(作品が多い)。逆に、それが「物語」の意義なのかな、と思う。
 私たちがいるこの世界と、小説の物語世界は同一ではないけれど、そうやって物語に慣れていくことで私たちの世界を客観的に捉えられるようになる。
「この世界はどんな物語なのだろう?」なんて一見馬鹿げた疑問が意味を持って見えてくる。

 こうやって考えていくことが、愚直に幸せを目指す唯一の道なのかな、と思っています。 {1}:自分自身の唯一性は疑わしいけど、ここでは触れません。

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